桂離宮
たてもの探訪Ⅱ(山城4) 2021年09月12日公開
京都市西京区 【訪問】2018初夏・2019秋・2021初夏
◆れきし
桂離宮は、後陽成天皇の弟・八条宮智仁親王が下桂に御茶屋(別荘)を造営したのに始まります。元和元年(1615)頃から着手され、まもなく「瓜畑のかろき茶屋」とよばれた簡素で格調のある建物(古書院)と庭がつくられました。
智仁親王没後、しばらく荒廃しましたが、2代智忠親王が復興・増築を開始。中書院・新御殿、月波楼・松琴亭・賞花亭・賞意軒等の御茶屋、そして園林堂(位牌所)とそれらを回遊する庭園を整備して、後水尾上皇の御幸に備えます。しかし智仁親王は寛文2年(1662)に亡くなり、3代穏仁親王(後水尾上皇の皇子)の時に、御幸道や御幸門を含めた全体ができあがったのです。後水尾上皇の御幸は完成直前の明暦4年(1658)3月と、直後の寛文3年(1663)3月・11月の計3回に及びました。
京極宮と称された第6代文仁親王・第7代家仁親王・第8代公仁親王と続く3代は、初代智仁親王への憧憬のもとに学芸を振興し、下桂の茶屋に霊元上皇・親王家・公家らを招き、盛んに交流しました。現在の私たちが見る姿は、この江戸時代中期に一層の数寄なる精神と、簡素でありながらも優雅な意匠が付加されたものです。このころ宮家は、御陵(みささぎ)御茶屋・開田(かいでん)御茶屋・鷹峯御茶屋も合わせて造営していました。
その後、後嗣に恵まれず空主の期間が長くあり、桂宮と称した第9代盛仁親王(光格天皇皇子)もわずか2歳で死去。文久2年(1862)に仁孝天皇の皇女淑宮内親王が第11代当主として入り、桂宮家は明治維新を迎えます。明治4年(1871)の上地以後は宮内省管轄となり、岩倉具視の意向をうけた家令宇田淵のもと、「桂別邸」として再出発したのです。
明治10年2月18日には明治天皇の行幸があり、翌年の京都博覧会開催中には今でいう「特別拝観」が行われ、一般庶民にも見学が許可されました。しかし明治14年に淑子内親王が死去したため、明治16年に「桂別邸」は「桂離宮」となり、宮内省(→宮内庁)により保存整備が図られていくことになります。創建以来一度も火災に遭うこともなく、苑内はほとんど当時の姿のままですが、周辺の環境変化は如何ともしがたく、桂川改修による水位の低下で湧水が途絶えました。昭和39年には周辺の農地が買い上げられ、景観の保持が取り組まれています。
◆見どころ
複雑に入り組む汀線と大小の島々を配する苑池と御殿(古書院・中書院・新御殿)を中心に、それぞれ趣向を凝らした数寄屋風の建物(松琴亭・賞花亭・笑意軒・月波楼)と位牌所(園林堂)が点在する回遊式庭園です。それらは洗練された美意識で貫かれた苑路(門・飛び石・延べ段・灯籠・手水鉢・橋・舟着き場・垣根)でつながって一体となり、四季折々に変化に富んだ風景が次々と眼前に広がります。日本美を代表する建築・庭園として世界的に名声の高い空間を、宮内庁職員の方の親切なガイドで満喫できるのは、夢のようなひとときです(参観申し込み要)。
複数の建物が連結した中心の御殿群の関係は、長い間謎に包まれていましたが、昭和の大修理(昭和51~57年)によって、智仁親王・智忠親王による造営の経過が明らかにされました。それらを踏まえた図録や解説、あるいは識者のエッセイなどの出版物が豊富で、見学して楽しみ、帰ってからも本を見て楽しみ、そしてまた訪れて感嘆します。
桂宮家の古文書や記録類、そして歴代宮様の和歌や典籍は、宮内庁書陵部にそっくり伝わっています。それらも公開が図られていますので、この離宮が営まれた歴史的背景や保存整備の歩みを知ると、いっそう奥深く感じることができます。特に建築史の西和夫先生は、「桂宮日記」を始めとする関連資料を博捜し、桂宮家本邸や御茶屋の研究を精力的に進められ、その魅力を綴りました。
-主要参考文献-
・梅棹忠夫・川添登 『桂離宮』 淡交新社 1961年
・西和夫『近世の数寄空間-洛中の屋敷・洛外の茶屋-』 中央公論美術出版 1988年
・西和夫 『桂離宮物語』 筑摩書房 1992年
・『桂離宮・修学院離宮』 京都新聞出版センター 2004年
・西和夫『京都で建築に出会う』
・斎藤英俊・穂積和夫 『新装版 桂離宮』 草思社 2012年
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・たてもの探訪へのお誘い
Ⅰ乙訓(長岡京市・向日市・大山崎町・京都市西京区の一部)
Ⅱ山城(京都府)
Ⅲ大和(奈良県)
Ⅳ近江(滋賀県)
Ⅴ拾遺(全国各地)