水無瀬神宮

たてもの探訪Ⅴ(拾遺36) 2024年08月23日公開

大阪府島本町


◆れきし

 水無瀬の地は、後鳥羽上皇が正治元年(1199)ごろから造営を始めた離宮、水無瀬殿(皆瀬御所、広瀬御所)の地。ここが、建保4年(1216)8月の大風洪水で流出したため、翌年久我通光(後鳥羽院の近親)によって、西の山手・百山付近に新御所が造営されました。『明月記』によれば、「眺望のよいところに海内の財力を尽くしてつくられ、山上に池があり、池の上に滝を構え、河を塞いで山を堀る」というもので上御所とし、淀川河畔のもとの場所には下御所(釣殿)修を造営したのです。上皇はこの離宮を大変気に入り、公歌合や遊猟に公家らを引き連れて、たびたびの行幸がありました。

 しかし、公武関係はしだいに悪化。ついに承久3年(1221)、上皇方が討幕の挙兵(承久の乱)をするも敗北。後鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡、土御門上皇は土佐へと配流。後鳥羽上皇は、延応元年(1239)、死の直前に置文をつくり、水無瀬殿を守っていた近臣・藤原信成・親成親子へ、水無瀬殿を託したのです。

 これにより、信成親子は下御所の地に御影堂を建て、上皇の御影(修明門院から寄進された法体・俗体2幅)と、隠岐から送られた御手印置文を安置して菩提を弔い、以後、所領や堂舎の寄進など、皇室や時の権力から手厚い保護をうけました。藤原信成親子は水無瀬氏を名乗り、御影堂を本所として邸宅を構え、家の職掌として歴代当主が日夜奉仕を続けてきたのです。

 そして明治6年(1873)、水無瀬御影堂は、新政府により官幣中社に列せられ、後鳥羽・土御門・順徳の三院を奉遷合祀した「水無瀬宮」となり、さらに昭和14年(1939)に「水無瀬神宮」(官幣大社に昇格)と改称されました。

◆見どころ

 西国街道の広瀬集落から東に入り、別天の境域になっています(現在は、新興住宅に取り囲まれている)。西門から入ると、南寄りに拝殿(昭和3年改築)・渡殿(昭和3年改築)・本殿(江戸時代前期)が見えてきます。

 本殿は、桁行3間・梁間2間の入母屋造。寛永18年頃、明正天皇の内侍所(ないしどころ)の部材が下賜され、それを使って本殿に作り替えられたと考えられています(慶安2、3年頃完成)。

 客殿(書院、重要文化財)は、桁行6間・梁間5間の入母屋造で、南・西面に広縁をもつ上段の間や大広間があり、法会・和歌会・対面・饗応などに使われてきました。豊臣秀吉の寄進で、造営奉行は福島正則と伝えられていますが、寛永火災後の再建とする川上貢氏の説もあります。

 燈心亭(茶室、重要文化財)は、御水尾上皇の仙洞御所から移築されたと伝わり、屋根は寄棟、茅葺きで、茶室(三畳台目)・水屋ノ間(三畳台目)、大水屋・脇水屋、入側畳縁からなります。凝った格天井など、優美で優れた材料や意匠は、数寄屋の名品として高く評価されています。

 後鳥羽上皇お気に入りの水無瀬離宮の故地で、その遺言により御影堂が造営され、明治の神仏分離で神社へ。けっして大きな神社ではありませんが、その数奇な運命のなかで守られ続けている深い由緒と境内は、類まれなるものといってよいでしょう。

(2024年8月、「招福の風」イベントに参拝)

 

-参考文献-

・『島本町史』本文編 1975年 (建築担当は川上貢)

・西和夫『京都で建築に出会う』 彰国社 2005年

・令和5年度「水無瀬所蔵資料調査概要」 島本町教育委員会 2024年 

・濱松里美「室町・戦国期における後鳥羽院怨霊についての考察」『奈良史学』41号 奈良史学会 2024年

 

西面鳥居

客殿

水無瀬川(西国街道付近)


水無瀬神宮発行 燈心亭絵葉書 (4枚入り、図添付)

 外観両面と、茶室、水屋の構成および意匠のみどころを、鮮明に写した写真です。平面図が添付されているので、とてもよくわかります。