石清水八幡宮
たてもの探訪Ⅱ(山城48) 2024年10月15日公開
京都府八幡市 【訪問】2022年・2024年
◆れきし
貞観元年(859)、奈良大安寺の僧・行教が、宇佐八幡宮より八幡神を男山に勧請したのが起源。創建以来、都の裏鬼門(西南の方角)を守護する王城の神として皇室の尊崇をうけ、度々天皇・上皇の行幸がありました。創建以来の伝統を伝える石清水祭は、賀茂祭・春日祭(大和)とならぶ、三大勅祭。
また武運長久の神として、鎌倉幕府・室町幕府をはじめ、織田信長・豊臣秀吉が修造・再興。この八幡神の護持は、時の権力者のステータス(社会的地位・権威)の現れと認識されていたのです。
現在の本殿は、寛永11年(1634)、三代将軍徳川家光による造営。中心の八幡造二棟には、応神天皇・神功皇后・比咩大神が祀られており、幣殿・舞殿・楼門を回廊で囲んで、他に例のない大規模・かつ荘厳な社殿となっています。
前近代の石清水八幡宮は神仏習合が顕著で、「石清水八幡宮護国寺」とよばれていたように、山上・山下の全山に、神社と寺院が建ち並んでいました。元禄5年(1692)の石清水八幡宮絵図(中井家文書・京都府立京都学歴彩館蔵)を見てみましょう。この絵図は、元禄の修理にあたった幕府御用頭・中井家が作成したもので、鳥観図と建物指図を合体して描いています(とても精確で、さすが!)。
部分①は、山上本社の南西、総門隣接地の大塔(多宝塔)と、丈六阿弥陀を本尊とする八角堂。部分②は山上本社の東門を降りたところに、宝塔と護国寺(薬師堂)・観音堂。その崖下、水が湧き出していたところに石清水社。部分③は山下の下院(頓宮)・一の鳥居・放生池・放生川。勅祭の石清水祭りで、3基の神輿が巡行し、放生会が行われるところです。
しかし慶応4年(1868)1月の鳥羽・伏見の戦いで山下一帯は焼失。さらに神仏分離令による廃仏毀釈のなかで、山上の大塔・八角堂、山腹の法塔・護国寺や、豊蔵坊・瀧本坊など48あったとも伝えられる坊舎は、すべて廃されてしまいました。
◆見どころ
明治維新の大激動の後、修理や整備が積み重ねられて、現在の石清水八幡宮があります。山上の徳川家光再建の壮麗な本社は、規模・技巧ともに古代以来の格式の高さを誇っています。また、仏教的な要素がすっかり取り払われたとはいえ、境内の男山はそっり保全されており、表参道・七曲り・裏参道・ケーブルのルートをくりかえし周回すると、往時の姿をイメージすることができるでしょう。一の鳥居のところの頓宮(御旅所)も再建され、毎年9月には石清水祭が催行されています。
特筆すべきは、奇跡的に廃仏毀釈を免れ、移築された建物があることです。一つは山上にあった八角堂で、八幡正法寺の住職が本尊(丈六阿弥陀・鎌倉時代)と共に譲り受け、麓の西車塚古墳(前方後円墳)の上に移しました。平成25年(2013)年には公有化が図られて修理が行われ、隅切八角形・朱塗りの美しい姿が蘇りました。
もう一つは石清水八幡宮の社僧で、瀧本坊の住職をつとめた松花堂昭乗ゆかりの小庵(泉坊)や関連資料が、八幡市立松花堂庭園・美術館で見学できることです。昭乗(1584-1639)は茶の湯・書・絵画などを得意とし、文化人として名高く、石清水八幡宮の奥深い歴史や文化を今に伝えています。
-参考文献-
・永井規男ほか『御鎮座1150年記念・徳川家光公本社造営380年 石清水八幡宮本社調査報告書』 石清水八幡宮 2014年
石清水八幡宮全図(元禄5年) 京都府立京都学歴彩館「京の記憶アーカイブ」より
部分①:本社南西の八角堂と大塔
部分②:本社東下の護国寺(薬師・観音)と宝塔・石清水社
部分③:山麓の下院(頓宮)と放生池
楼門向拝の彫刻
八角堂(西車塚古墳)
南総門
八角堂内部の彩色
本社全体図
説明版に見る丈六阿弥陀
泉坊跡地入口
松花堂
松花堂内部
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