高津・柿本神社

たてもの探訪Ⅴ(拾遺38) 2024年10月18日公開

島根県益田市 訪問:2024年9月


◆れきし

 国司としてこの地に赴任し、益田川の河口・鴨島で亡くなった柿本人麻呂を祀り、神亀年間(724-729)に聖武天皇の勅命をうけて造営されたのが始まりと伝えます。この社殿は万寿3年(1026)の地震と津波で海中に沈下。神像は高津山の麓・松崎の地に流れ着き、そこに社殿と人丸寺が再建されました(後鳥羽天皇の時代に修理と水田寄進)。 

 天正15年(1587)年4月21日、豊臣秀吉の九州征伐陣中見舞いのため田辺城から出航した細川幽斎は、5月7日に高津を通りかかります。海上から「石見潟高角(高津)の松の木の間より浮世の月を見果てるかな」という人麻呂の歌を思い出し、「移りゆく世々は経ぬれど朽ちもせず名こそ高角の言の葉」と一首(幽斎作『九州道の記』)。このころより、人麻呂ゆかりの地として高名であったことがわかります。

 延宝9年(1681)には、風水難を案じた津和野3代藩主亀井茲親(これちか)が社殿を高津山上に移し、享保8年(1723)、「柿本人麻呂一千年」と称して朝廷から「柿本大明神」の神号と正一位の位階が与えられました。

◆見どころ

 急な石段を上り、中門を経て、山上に唐破風檜皮葺向拝がついた入母屋造檜皮葺の本殿(1712)があります。社宝として、霊元・桜町・桃園・後桜町・光格・仁光天皇が、人麻呂御影供を催して和歌の上達を祈願したさいの短冊が伝来。霊元天皇は、細川幽斎ー八条宮智仁親王ー後西天皇と続く古今伝授(御所伝授)を受け継いだ人物で、和歌の神・人麻呂への奥深い信仰を感じることができます。